聖書のみことば
2022年2月
  2月6日 2月13日 2月20日 2月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月6日主日礼拝音声

 主イエスの故郷にて
2022年2月第1主日礼拝 2月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第6章1〜6節a

<1節>イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。<2節>安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。<3節>この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。<4節>イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。<5節>そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。<6節a>そして、人々の不信仰に驚かれた。

 ただいま、マルコによる福音書6章1節から6節の前半までをご一緒にお聞きしました。1節に「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った」とあります。「そこを去って」というのは、カファルナウムの町を後にされたということです。
 カファルナウムの町では様々なことがありました。会堂では、「安息日に律法に命じられていることが何であるか」を巡って一部のユダヤ人たちと激しく対立するということが起こりました。そして、そのユダヤ人たちは何とかして主イエスを殺そうという相談さえしました。しかし最後には、カファルナウムの会堂長をしていたヤイロが主イエスのもとに来てひれ伏し、「どうか娘を助けていただきたい」と願いました。主イエスはヤイロと連れ立ってその家に出向かれ、途中で「娘が亡くなった」という知らせがもたらされても、なお「恐れず、信じるように」とヤイロの信仰を励まし、そして娘を死から命へと取り戻してくださいました。ヤイロの信仰はこの出来事によってどんなにか慰められ、また勇気を与えられたことか、その大きさは計り知れません。もし主イエスがそのままカファルナウムに留まられたなら、今度はヤイロが主イエスの防波堤となり、また弟子となって働いてくれたに違いないのです。

 しかし主イエスは、その町を去りました。主イエスはご自身を迎え入れてくれる居心地のよい落ち着き場所を求めておられるのではなかったからです。主イエスは、「神の配慮に満ちた愛の御支配がやって来ている」ことを人々に告げ知らせ、それを聞いた人たちが神の愛を信じて生きる、悔い改めに至るために、先へ先へと旅路を進めて行かれます。主イエスはヤイロの信仰を励まし、その娘を生き返らせることをもってカファルナウムへの伝道に一つの区切りをつけられました。そして次の町へと出向いて行かれたのでした。

 次の町、そこは主イエスが幼い日々をお過ごしになったナザレでした。「故郷にお帰りになった」と言われている通りですが、故郷にお帰りになったのは、いわゆる「故郷に錦を飾るため」ではありません。ある人が生まれ故郷を離れ、他所の土地で大きな働きをして有名になって故郷に戻ると、故郷の人々が大歓迎してくれるようなことがありますが、主イエスの場合はそうではありません。主イエスは弟子たちを引き連れ、他の町や村で行なったのと同じように、故郷のナザレにも神の御国の訪れを伝え、神の愛の御支配に従って生きることを宣べ伝えるために、ナザレに来られました。主イエスは旧交を温め幼なじみとの再会を楽しむために故郷に戻られたのではありません。神の国の福音を宣べ伝えようとして、ナザレに来られたのでした。

 ところが、故郷であるナザレの人たちの主イエスへの態度がまことに冷ややかなものであったということが、今日の記事からは聞こえてきます。
 他の町や村では、主イエスが弟子たちを連れて入って来られると、早速興味を惹かれた人たちが集まり群がってきて、そこで主イエスは「神の国が、今、ここにやって来ている」と説教することができたのでした。ところがナザレではそういうことは一切起こらなかったようで、安息日になって初めて、主イエスはこの町の人々に話しかける機会を得たのだと言われています。2節の初めに「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」とあります。原文では「教えることを始めた」と書かれており、まさしく主イエスは、会堂でようやく人々に語りかける糸口を得られたのでした。
 当時の会堂は、町の公民館や公会堂のような役割も果たしていて、毎週の礼拝の後で見かけない人がいる場合には、その場で町の人たちに紹介されたり、話をする機会を与えられました。主イエスは恐らくこの機会を用いて、ナザレの人々に、「今、時が満ちて、神さまの恵みの御支配がやって来ている。そのことを信じて新しくここから生きるように」とお奨めをなさったのでしょう。主イエスの言葉を聞いたナザレの人々は、大変驚いたのだと言われています。2節の後半に、「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か』」とあります。
 ナザレの町の人々は、主イエスが町にやって来た当初、冷めた目で主イエスのことを見ていました。「もともと大工のせがれだったイエスが、大したことを話すはずがない」、そう考えていたためです。ところが会堂で実際に主イエスが口を開くと、そうではありませんでした。主イエスは堂々と、「神の国、神の恵みの御支配が、今あなたがたのもとにやって来ている」とおっしゃったので、聞いた人々は互いに顔を見合わせながら、「この人はこのようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と言い合いました。

 主イエスが語る恵みの福音は、いったいどこから来たのでしょうか。その答えは、主イエスがいつも語っておられる言葉の中にあるのです。主イエスがどのように教えられたかということは、マルコによる福音書1章15節にその言葉が出てきます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。これが、主イエスがどの町でもお伝えになった基本的なメッセージです。
 「時は満ち、神の国は近づいた」とおっしゃっているのですから、主イエスはこの福音を神から直接お聞きになり、それを語っておられたに違いありません。主イエスがなさる奇跡の手の業も、「神さまの恵みの御支配が、今、実際に訪れて来ている」ということの、目に見えるしるしです。「神さまの恵みが支配する」ということのしるしとして、癒しが行われ悪霊が追放されるという奇跡が生じているのです。ナザレの人々が互いに顔を見合わせながら発した「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」という問いは、その答えを言うならば、「それは、父なる神さまから与えられたのだ」ということになります。

 ところがナザレの人たちは、今自分たちの前に立っている方が、「神から遣わされて神の御言葉を語っておられる方」とは思いません。ナザレの人たちが思っていることは、「あの大工のせがれのイエスが、どこかでそれらしく聞こえる知識を仕入れてきて語っているに違いない」と考えます。主イエスが心を込めて語っても、ナザレの人たちは、「神が今、自分たちに語りかけてくださっている」とは思わないのです。その結果、この人々は3節のように言い始めて、主イエスにつまずきました。3節「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」。まさしくナザレの人々は、主イエスという方、主イエスという人につまずいたのです。

 「主イエスは真の神であり、真の人である方である」というような言われ方をされることがあります。主イエスのことをそのように説明されると、私たちはどういうわけか分かったような気になってしまいます。しかし、「主イエスは真の神であり、真の人である」ということを、果たして私たちは本当に分かっているのでしょうか。あるいは本当に分かることができるのでしょうか。主イエスが神の独り子であって、神と等しい方であるということなら、よく分かるのです。私たちは主イエスを神だと思えばこそ、この方を信じ、この方の御名によって神にお祈りも捧げます。
 ところが同時に、「主イエスが真の人でもあるのだ」ということは、実は分かったような気でいながらなかなか本当には腑に落ちないのではないでしょうか。主イエスが真の人となってくださったからこそ、主は私たちに親しく交わってくださいます。弟子たちに対してもそうでしたし、また私たちの教会生活においてもそうです。
 私たちの教会生活の中に主イエスが今も共に歩んでくださり、教会の交わりを通して主イエスが親しく御言葉をかけてくださり、弱い私たちを覚えて祈ってくださり、私たちが決して孤独になったり孤立したりしないように配慮し、見守り支えてくださいます。ところが、私たちはどうもそこのところがなかなか分からないようです。「真の神である方ならば、真の神らしく、人間とは違うはずだ」という思い込みを、私たちは強く持っています。
 「主イエスが真の人となってくださった。そして真の人として私たちの間を歩んでくださる」ということが分からない場合にどうなるか。キリスト教信仰というのは一人一人が心の中に覚えるキリストの観念のように考えられたり、あるいは皆が異口同音に唱える信仰の理屈、教理やお題目のように受け取られたりすることになります。そしてそれは、なんとこの世にお生まれになった主イエス・キリストと生身で接していた人たちですら、そうだったということを、今日の箇所は伝えてくれているのです。

 主イエスの故郷であるナザレの人たちは、もし目の前に現れた人が幼い頃からよく知っていたイエスではなく、他の人で、例えばスーパーマンのような人であったなら、「神さまの御言葉が語りかけられている」ということを受け取りやすかったかもしれません。けれども、よく知らない人から聞かせてもらえばそれで信じられると決まっているわけでもありません。誰から聞かされるにせよ、私たちが地上の生活で、この人生の中で耳にすることのできる御言葉は、結局は、「生身を引きずって生きている誰かから」聞かせてもらう他ありません。
 そうしますと肝心なのは、御言葉を聞かせてくれる相手がどのような人物であるかを私たちの側がよく分かっているということではなく、「まさに、ここで神さまが御言葉を語りかけてくださっている。神さまが今、この交わりを通して私たちに出会ってくださっている」と信じるということなのではないでしょうか。「神さまが交わりを持っていてくださる。神さまがこの交わりを通して、直接、わたしに語ってくださる」ということを信じないならば、どんなに優れた人物が語ったとしても、それを御言葉として聞いて、癒されたり慰められたりするということは起こりません。主イエスご自身がお語りになったにもかかわらず、そうだったのだと、今日の箇所は伝えています。

 ナザレの人たちは、主イエスのことよく知っていました。幼かった頃の姿も記憶に残っていましたし、また30歳近くになって突然家を出て行ったということもよく知っていました。父親のヨセフが亡くなった後に、幼い弟や妹たちを養い育て母を支えて家を盛り立てていくのは、長男であるイエスの務めだとナザレの人々は思っていました。ところがそのイエスが、ある日ふと居なくなり、そしてしばらくの時を経て数人の弟子を引き連れ、預言者か教師のようななりをしてナザレに乗り込んで来たのです。
 町の人たちからすれば、親を捨て、弟や妹たちの養育も放り出して勝手に家を出て行った、そういう人物がイエスです。おまけにカファルナウムの町からは、イエスが一部の人たちと激しく衝突して気が変になっているという悪い噂まで聞こえていました。そういう人物が自分たちの町に帰ってきた時に、一体誰がわざわざ、そういう人物の話を聞きに行こうという思いになるでしょうか。悪い噂を聞いてイエスの身柄を取り抑えに行った母や家族の者たちに会おうともせず追い返したということも、町の人たちは知っていました。そういう親不孝な息子から一体何を教えられたいと願うでしょうか。ナザレの人々にしてみれば、主イエスに対して冷淡な扱いをする理由は、確かにあったのです。主イエスはナザレの人々からは大変悪く、低く受け取られました。

 しかし主イエスがどうしてそれをなさったのか、それはまさに神からのお召しに応えての歩みだったのだと、フィリピの信徒への手紙の中に記されています。2章6節から8節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。
 主イエスが「真の人となられた」、まさしく「人間の姿をお取りになった」のは、主イエスがこの世の人間が受けるあらゆる苦しみや悲しみ、あるいは不当な扱いも、ご自身の側に引き受けられたということです。詳しい本当の事情を理解しないまま、主イエスに後ろ指をさす人がいます。あるいは主イエスは謂われない非難を受けることもあります。しかしそういうことまで全て含めて、主イエスは「真の人になられた」のです。主イエスはご自身を無にされ、僕(しもべ)の身分になられました。僕というのは自分のことを周りの人たちによく思ってもらおうとして行動するのではありません。たとえ周りからどのように思われても、主人の言いつけに従って行動します。そのことで誤解を受けたり、親不孝だと罵られたり、憎まれたり嫌われるようなことがあっても、僕は僕である以上、その死に至るまで主人に従順に歩んでいきます。主イエスはまさに、「神さまの御国がやって来ている。神さまの御支配に忠実に生きるように」と悔い改めを宣べ伝える、そういう僕として、ご自身の噂や評判など気にせず、神の国の訪れを告げ知らせて歩まれたのです。
 主イエスご自身はどの町でも、どの村でも、また誰に出会っても、同じことをお伝えになりました。「神さまの御支配が、今、ここにやって来ている。わたしと出会ったあなたは、神さまの御支配を知らされたのだから、それを信じて向きを変え、自分の思いに生きるのではなく、神さまのものとなって生活するように」と、主イエスは誰に対しても勧め、悔い改めを宣べ伝えられました。そしてそういう言葉を聞いて、信じて慰められ、勇気や励ましを受けて癒された人たちはいたのです。

 しかしその反対に、その言葉を信じないために、何も起こらないということもあり得たのでした。ナザレの町ではその悪い方の経過を辿りました。町の人たちは、主イエスのことをよく分かっていると思い込んでいたために、主イエスを通して神が自分に語りかけてくださっていると信じなかったので、何も起こりませんでした。5節に「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあります。
 「主イエスにも、おできにならないことがある」と聞こえるこの言葉は、誠にショッキングな言葉です。あまりにショッキングなので、マルコによる福音書のこの言葉は、この後書かれたマタイによる福音書では、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と、奇跡はやろうと思えば出来たけれど敢えてしなかったという書き方になっていますし、ルカによる福音書では、その言葉自体がそっくり取り除かれ触れられなくなっています。

 しかしそれならば、このマルコによる福音書の記事はいったい何を伝えようとしているのでしょうか。こういう言い方で聖書は何を言おうとしているのでしょうか。
 この福音書では、「癒しのような奇跡は、主イエスを信じ、その御言葉を信じる信仰に関係する」ということが教えられています。この直前、死んでいたヤイロの娘が生き返らされたという記事が記されていました。あの記事では、娘が亡くなったという知らせを受けて衝撃を受けていたヤイロに向かって、主イエスが「恐れるな。ただ信じなさい」とおっしゃり、信仰を励まされました。本当の奇跡というのは、単に病気が治ったり死んだ人が生き返るという、そういう非常に派手に見えるところにあるのではなくて、「そこに信仰が生まれ、神との間の生きた真実の交わりが生まれる」というところに生じます。人目を引きつけるような様々な結果というのは、神との交わりに実際に生きるようになった人が神から力を与えられ、勇気と落ち着きを与えられた結果として、そこに生じてきます。神との真実な交わりを抜きにした癒しは、言ってみれば単なる見世物にしかなりません。それは、観る人、聴く人を驚かせることがあっても、ただそれだけです。「神との交わりを持ち、自分の身を捧げて神を礼拝し、御言葉に励まされて生きようとする悔い改め」には導かれません。「主イエスには病気を癒すことができる力があるのだ」と聞かされて、ただ見世物のように「不思議なことが起こった」と思うだけなら、悔い改めには導かれないのです。
 そして、悔い改めに導かれないということは、神の御心ではありません。神は私たち人間が真に神に励まされ支えられて生きるようになることを望んでくださっています。主イエスは神の御心でないことはなさいませんし、行うことがおできにならないのです。

 そういう意味で、今日聞いているナザレでの出来事を伝える記事は、会堂長ヤイロや、あるいは出血性の病気で苦しんでいた女性の記事と対照的な記事という意味合いがあります。主イエスの言葉を信じたヤイロ、そしてそのヤイロの主イエスに信頼している有様に励まされて自分も主イエスに期待しようという思いを与えられた病む女性、それに対して主イエスの言葉を信じなかったために何も起こることのなかったナザレの人たちという、対照的な姿が、マルコによる福音書5章の半ばから6章の初めにかけて次々と記されているのですが、これは決して、偶然こういう順序で書かれているのではなく、はっきりと対照的なものとして描かれています。

 そう考えますと、聖書はこういう一つながりの記事を通して、これを読む私たち、これを聞く私たちに尋ねているのかもしれしれません。「それでは、あなたはどうなのか」という問いがここにはあります。この記事を聞く私たちは、ヤイロのような者でしょうか。それともヤイロの信仰に励まされ微かでも期待を持つようになった病に苦しむ女性のような者でしょうか。それともナザレの村人のような者でしょうか。自分では色々なことを分かっているつもりで、しかしその実、本当に決定的な一つのこと、「人間を通して神が御言葉を語りかけてくださり、神が交わりを持ってくださる」という、そのただ一つの肝心なことを信じることができなかったために、ナザレの人々は何も経験することがありませんでした。

 しかしここには、なお慰めの余地があることが語られています。ナザレで、それでもごく数人の病人は癒されたと言われています。私たちの真の希望はここにあります。主イエスはこの人たちを癒された時に、信仰を抜きで癒されたのではありません。主イエスは神の御心に添うことしかなさらないのですから、本当に頑なで聞き分けがなかった人たちにも出会ってくださり、そして主イエスとの出会いを通して、なんとかその人が微かでも信仰を持つことができるようにと努力してくださり、そしてその結果、本当に僅かですが、主イエスに信頼し期待を持つ人が生まれたのでした。

 たとえ頑なで悟りのない人であっても、主イエスはなお、その人に信仰を与えて、信仰によって生かそうとしてくださいます。その主イエスの憐れみこそが、私たちの慰めであり希望の源です。
 主の憐れみのもとに身を寄せて生活する、幸いな者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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